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人生の生き方のロールモデルとしての森靖孝さん

森さんとの出会いとメンター三田会の創生

 SFCのインキュベーション活動を立ち上げて数年した頃、慶應義塾のアントレプレナーシップの活動を広げていくためには、卒業生の皆様の関わりが必要不可欠と思いたちました。そこで、卒業生の中から中心となってくださる候補者を探し始めていたときに出会ったのが、当時資生堂の常務 (国際事業担当)だった森靖孝さんでした。当時は社用車で移動していて、移動のときに何度か乗せていただいたのもとても懐かしい思い出です。蛇足ですが、森さんが役員を引退して電車で移動するようになったときに駅を一緒に歩いていて、「Suicaって何?」と聞かれたのも懐かしい思い出です。


 メンター候補者が大分集まるようになったタイミングで、メンター三田会という新しい組織を大学の外に作りたいと思いました。当時森さんと共に中心的に関わって下さっていたのが鈴木茂男さんで、鈴木さんに全体のプランを検討いただきました。鈴木さんと僕の間では、鈴木さんが事務局長に、そして会長は森さんにお願いしよう、という合意がありました。そのときには、森さんには一切根回しをしていなかったのですが、受けていただけるだろう、と思っていました。


 メンター三田会の発起人会は、SFCの何かのイベントの後に、湘南台の居酒屋のカラオケルームみたいなところでやりました。多分5人くらいのメンバーがいて、そのときの発起人のメンバーで今、メンター三田会に関わっている人は誰もいないかも知れません。そして、鈴木さんが、「私が事務局長をやりますから、会長はぜひ森さんに」とふったのですが、森さんは「いや、私は会長の器ではないから、会長だけは勘弁して欲しい。」と固辞。説得する余地がない雰囲気で、そのときにいたメンバーもみんな副案があったわけではないので、場がシーンとなってしまいました。とっさに、僕が思いついて、「では、森さんに副会長をやっていただくのはいかがでしょう。会長は不在ということで、不在の間は副会長の森さんに会長を代行していただくのはいかがですか?」と提案しました。森さんも、「その形式であれば。」とのことで受けていただき、どうにかメンター三田会をスタートすることができました。


 その後も、ずっと会長は見つからずに不在だったのですが、だんだんメンター三田会の活動も幅が広がり、森さんも精力的に動いて下さっていました。そしていつの間にか森さんが自己紹介で「メンター三田会の代表をしております」とおっしゃるようになりました。飲み会のときに思わず森さんに「森さん、いつから代表になったのですか?あのとき会長は固辞したのに!」と笑いながら突っ込みました。「会長は不在だけど、会長代行は実質メンター三田会を代表しているから代表みたいなものだ。」とのお返事。メンター三田会の活動が発展するにつれて、森さんにとっての第二の人生のライフワークにして下さっているのだ、ととても嬉しく受け止めました。


森さんとの思い出

 森さんとはたくさんのことをご一緒させていただきました。1週間に5回飲みをご一緒したこともありますし(おそらく息子さんとよりも多く飲んでいた)、海外出張もスタンフォード1回、韓国2回をご一緒させていただきました。韓国出張からの帰国日に、お孫さんが生まれて、空港からそのまま病院に向かわれたことも懐かしく思い出します。そのお孫さんももう中学生ですから、月日の経つ早さを感じます。湘南台の中華料理だったり、資生堂パーラーの1万円カレーだったり、たくさんのお店をご一緒させていただきました。森さんとのダイアローグでは、資生堂のフレグランス事業の立ち上げの話から、エヴァンゲリオンまで、多岐に渡る話題をお持ちでした。


 六本木のORFの後に打ち上げで、徹夜でカラオケにいったのですが、僕は疲れ切って途中で寝てしまっていたのに、森さんは朝までお元気で、最後の締めの「若き血」のときに、「若き血だから起きろ!」と寝ている中で起こされたのも良い思い出。当時60代前半だったと思いますが、驚異的な体力でした。

森さんが資生堂の役員や常勤顧問を引退なさって、いよいよ慶應の仕事により深く関わってくださるようになったときに、これだけコミットしてくださるので、SFCの特別研究教授になっていただければ、という話を國領先生としました。年齢による定年との関係で半年だけだったのですが、慶應義塾大学の特別研究教授を経験した方が定年後にメンター三田会を引っ張っていただくことに意味があるのではないか、と思ったのです。という訳で森さんは、半年だけSFCの特別研究教授でした。

 

 森さんらしいなと思うのは、慶應義塾という組織のレピュテーションを誰よりも大事にしていた方ですから、定年後も、元SFCの教授と名乗ることはありませんでした。そこには、慶應義塾大学の教授というタイトルを大切にする、森さんの美学があったのだと思います。でも実は一回だけ、元教授のポジションを使ったことがあり、それは僕が米国に留学するときの推薦状でした。これは森さんと僕の二人しか知らない話なのかも知れません。


ロールモデルとしての森さん

 メンター三田会を創設する当初、メンターは新事業を創造するにあたってのアドバイスや人的ネットワークの提供、という役割が中心となるだろうと思っていました。でも、森さんと交流していく中で、森さんの「生き方」を目の当たりにして、その思いにも変化が生じました。森さんみたいに年をとるような人生を送っていきたいな、という思いを持つことにつれて、メンターには人生のロールモデルとしての役割がある、ということに気付かされました。


 森さんの訃報をお聞きしたときはもちろんショックでしたけれども、この半年間で状況のご連絡を個人的にいただいていましたし、今までの感謝の気持ちをお伝えさせていただくタイミングもあって覚悟は決めていました。不思議なもので、悲しいという気持ち以上に、たくさんの楽しい思い出が蘇ってきました。その生き方自体が素晴らしいな、と心から尊敬する方が、ダイナミックな人生をやり尽くしたときに感じるのは、喪失感よりもその人生そのものをcelebrateしたい、という気持ちなのだと思います。


 森さん、あっぱれな人生でした。森さんのような生き方をロールモデルとして、これからの人生を歩んでいきたいと思います。そして、メンター三田会が、多くの人の「生き方」のロールモデルを紡いでいく場として発展することで、森さんの志が広がっていくように思っています。

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